沿革

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 織田信長との10年に及ぶ石山合戦を、1580年(天正8年)朝廷からの和議を受け入れた本願寺教団は、大坂:石山本願寺を退去し、紀州鷺森~貝塚と寺基移転を行ったのち、京都の市街地区画整理を行なった豊臣秀吉からの土地寄進により、大坂天満から京都堀川六条へ寺基(本山)移転:1591年(天正19年)を行った。
 当時の本願寺第11代宗主は、第8代宗主蓮如のひ孫である第11代宗主の顕如。
 その天満から京都への寺基移転の随行の1人だった釋宗安が、同年の1591年(天正19年)に現在の瓦町に開創したのが當山の始まりとされている。
 開創当初から寺院としての機能を果たしていたのかは不明であり、推測するに当時から本願寺は天皇家との接点が色濃く、堀川六条から御所への道のりの為の休憩所(中継所)としての役割では無かったのかと思われる。

 當山に安置されている本尊阿弥陀如来立像及び親鸞聖人像の軸の裏書には寛永11年(1634年)と記されており、この年が開基宗安の逝去する2年前であった事から、開創当初は寺院としての機能では無くとも、初代宗安が存命の時期から本尊(須弥壇)だけでは無く脇壇(親鸞聖人像・蓮如上人像)の設置を施された寺院としての役割を果たしていたものと思われる。以来、令和3年度時点で創建430年となり、現在の住職(釋宗悟)は初代の釋宗安から数えて第17世となる。

 また、當山の住職を世襲している北條家であるが。
 平時政(北條時政直江守)から数えて15世が、當山初代の釋宗安(北條宗安)とされており、現在の住職(釋宗悟)は32世となる。

 當山所蔵の宝物に国宝や重文は無いが、本尊阿弥陀如来立像をはじめとする當山創建の時代からの所蔵物を、幾度にもわたる京の都の戦災から歴代の住職らが守り続けてきた。

 現在の本堂は、元治元年(1864年7月)に起きた、蛤御門の変を発端とする京都御所(一条通あたり)から南の六条通あたりまでを火災で覆い尽くした≪元治の大火(どんどん焼け・鉄砲焼け)≫において焼失し、慶應2年(1866年)に再建されたものであり、現在で155年ほどの建造物となる。現在の“京町屋”と言われる建造物も、その時代の建造物であり、同じように155年ほどの歴史がある。

 古文書によれば、拙寺創建の9年前の天正10年(1582年)に“本能寺の変”が拙寺から南西に約1kmで起こっているが、織田信長を討ったと言われる明智光秀を追った者から逃れるために、明智家の残人が當山に明智光秀の位牌を預けたとされているが、現在もまだ位牌は見つかってはいない。
 ●参考文献●
  日本随筆大成<第一期>23 昭和51年:吉川弘文館 刊 
  諸国奇遊談 川口好和著(寛政11年 1799年)